人 間 関 係 に つ い て 2

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【11】

人間社会における "多即一"

以前、私は自分のメガネがプールの水中の中ほどにある夢を見たことがあります。その夢のなかで『多即一』という文字が出てきました。
当時、私は仕事先のお得意さんと仕事上の意見の相違をかかえていました。 私たちは仕事上に限らずそれぞれ自分の意見をもち、人と意見の相違を起します。これがこじれると、時にはトラブルにまで発展します。人間関係のトラブルのかなりの部分はこの意見の相違にありますでしょう。
私たちはそれぞれ自分の人生を生き、生き方考え方が皆ちがいます。人間関係や社会関係の難しさはこのそれぞれ違う考え方をしていることにあります。みな同じ考え方や意見ならば、人間関係のトラブルも、国際紛争も、戦争だって起きないでしょう。


夢の中のメガネは自分の見方、つまり自分の考え方や意見を象徴しています。
普段の私たちはこのメガネの内側からメガネを通して見ています。そうして個々別々の意見や考え方の存在を認めています。私たちの人間関係では自分と他がそれぞれ決定的に別々なのです。
プールの中でメガネを通して見ると、メガネの働きをしません。メガネを通して見ても見なくても同じに見えます。つまり自と他の区別がつかないのです。


自分の意見も所詮は一つの世界(プールがその象徴)の中の一部分であり、 他の人の意見も自分の中の一つの意見なのだということを表しているように思えるのです。私たちが人生を生きているこうした自と他が別々に見える世界を小世界としますと、心の中には自と他が渾然一体となっている本然世界もあるということを表しているように思えます。
私流に考えますと、それぞれの個は大いなる一つに収斂されるものだというのが『多即一』の意味だろうと思います。『一即多』という言葉もありますが、これは大いなる一つがまた個として現われているということではないでしょうか。


人がこの "自分と他人とは本来、渾然一体である" という本然世界の観念でもって、人生を生きるとき、私たちの人間関係や社会関係はもっと楽なものになっていきますでしょう。

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【12】

人間関係は自分を磨く砥石

人生において現われてくる出来事や、人間関係は『類は類を呼ぶ』という心の法則に従って現われると言われています。
自分の起した心の波がそれと同じような波長の出来事や人を引きつけることになります。 自分が人と衝突する心の波を起すから、車や何かで衝突事故を起したり、巻き込まれたりするわけです。


人間関係でも時には私たちにとってつらくイヤな出会いがあります。 私がまだ若く勤め人であった頃、いつも上司には恵まれず、しょっちゅう衝突ばかりしていました。これなども目上の人や権力者に対する私の反抗的な心の現われであったわけです。
また自分をとりまく身近な人間関係は自分に最もふさわしい人であるとも言えます。「いえ、あんな人なんか私とは全然違うわよ。どこが同じよ!」と思える場合もかなりあります。しかしよくよく考えてみますと、その人が自分にとっている態度や心のあり方などは、 かって自分が人に対してとっていた態度や心である場合が多いのです。『与えたものが与えられる』という法則です。
私の体験からしますと、自分が人に与えていた量より拡大されて帰って来ていたように思えます。これは自分の姿に気づき易くする心のしくみなのかも知れません。


自分の心が荒々しければ、自分を取り巻く人間関係にも荒々しい人が登場し、人生模様も険悪な状態が出てくることになります。これは自分の人格が荒々しいから、荒砥という砥石で磨かれているようなものだと考えたらどうでしょう。
やがて自分が磨かれ、人格が上昇するにつれて、砥石も中砥になり、 やがては仕上砥になっていきます。かなりの処まで人格が高まりますと、最後にはやわらかい気持ちのいい布で磨かれるわけです。


私たちに現われる人間関係を、こうした自分を磨く砥石になぞらえて受け止めることが出来れば、すみやかに人格は上昇するのではないでしょうか。
ただ人をきらい、憎み、相対する人の悪い面ばかりに 心がとらえられていますと、なかなかつらさ、苦しみから抜け出せず、今の状態を継続させることになります。人間関係はまさに心の法則そのものなのです。

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【13】

無表情・無愛想は人生の大きなマイナス要素

私たちの心は具体的に表情や動作となって現われてきます。とてもうれしい心の時にはこぼれんばかりのうれしい表情となって、喜びの感情はその人の動作を生き生きしたものにします。
そうした自分が出す明るい表情や動作は、自分を取り巻く人間関係にとても大きな影響を与えます。 特に子どもにとって母の明るさや喜びほど、幸せなものは他にないでしょう。子どもに非常な安心感を与えます。


うれしいのにうれしい表情をあまりされない人もいます。もったいないですね。悦びの波紋が拡がりません。
夫婦や家族などの人間関係では、感情は非常に同調しますので、自分の感情は自分だけのものではなくなります。
子どもの歪みのない成長や成績それに健康などは、父母の明るさや悦びが最も影響します。なかには悲しい暗い心をより一層表現する人がいます。多分そういう人の心の中には同情されたい願望や自己卑下の心が潜んでいるのではないでしょうか。


ことさら暗く悲しい表情はされなくても、感情をあまり表に現さない無表情で無愛想な人もいます。 その人の心の表わし方の習慣性なのでしょう。でも人が無表情や無愛想である場合はどちらかというと心が暗く陰気になりがちです。
それだけではありません。そうした無表情・無愛想な人に接しますと誤解を与えかねません。「あの人は私に悪感情でも持っているのか知ら。いやな感じネ」と人間関係に要らぬ波紋を起します。


こうした人が奥さんであった場合、夫は家庭が楽しくありませんし、奥さんからの愛情もあまり感じません。夫婦の心の交流からくる深い幸せ感も生まれにくいでしょう。自然と家庭が暗く沈みこんでいきます。そうした家庭の暗さから子どもは逃げ出したくなり、家出をしたり反抗したり、暗さが暗い波紋を拡げていきます。


心の習性を変えればいいのです。毎日鏡を見て微笑みの練習をするだけでも変わってきます。【表情を良くすれば心もよくなる】これはジェームス・ランゲの法則と言われています。
無表情・無愛想は人生や人間関係にとってマイナスだという自覚を持てば人は変わります

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【14】

人間 と 環境

私たちを取り巻く「環境」は自分の心の影と言われています。私たちの心が知らず知らずのうちに自分の心に応じた人間関係や職場、生活環境などを選んだり創ったりしているということでしょう。
私たちはこうした自分の心にふさわしい環境のなかで喜び、悲しみ、苦しんだりの人生模様を体験しながら生きています。 私たちを取り巻く環境は、人生模様を表現しているだけではなく、私たちが人格的に深く高く成長していくために、いろいろなことを教えてくれる教室のような働きも持っています。


人は様々な体験を積みながら一生を送るのですが、その体験を通して「何か」を求めているのです。その「何か」が自分にとって一番大切なものなのですが、 その一番大切なものを教えてくれているのが、私たちを取り巻く人間関係や生活環境などの現われなのです。
自分にとって一番大切な「何か」を知り、それを自分のものにしていくために人生は展開されていっているとも言えます。


明るく健全な心で生活をし愛深い人間関係をこなしている人には、調和に満ちた環境が現われ、悦びの人生を生きることになりますでしょう。
問題は苦しみの環境のなかで生きている場合です。環境は自分の心の影ですから、自分の心の中のひずみが環境に投影されていると考えるべきなのです。
夫(妻)を裁き、欠点を見て本来の深い愛を相手に表現していないと、その家庭に暗く苦しい影を落とすことになります。あるいは一番たいせつな「何か」をお金や体面などに求めて生きている人もその間違った心の歪が、やがてそのお金や世間体などで苦しむという環境を現したりします。


私たちは今ある環境から自分にとっての大切なものを学びとることを怠ると、また繰り返し同じような苦しみの環境が現われてきます。私の人生では経済的苦境が繰り返し訪れてきました。私に欠けるもので大切なものになかなか気がつかなかったからです。
環境は次から次へと展開していき、人間関係や生活環境を通して私たちを導いてくれています。一番大切な何かを自分のものとするために。

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【15】

幼児の印象と人格

幼い頃の記憶は思い出すことはなかなか出来ないのですが、かといって記憶が無いかといえばそうではありません。無意識の世界に全ての記憶は蓄積されていると言われています。
この無意識の奥に積もっている観念が、その子どもの生涯を通して知らず識らずに影響を与えています。生まれて白紙の子どもの脳裏に入ってくる印象はすべて親(親に代わる人)から入ってきます。 親が教師であり、社会であり、すべてなのです。子どもはまだ幼いから何にもわかりはしないと思って、淫らな話をしたり、映像を楽しんだりいていますと、その印象は子どもの無意識に蓄積されて、健全な成長に歪をもたらします。


娘と父という人間関係を観てみますと、女の子は男性を父を通して識りますので、年頃になった時に男性に対する接し方や男性をみる目は無意識に父から得た印象で造られていきます。父が女遊びをしていたり、女性を語るのに性的な関心ごとばかり語っていますと、 娘が年頃になった時、女の部分を意識し強調した女性になったりします。
勿論父だけではなしに母との人間関係も大きく影響しますので、その現われ方にはかなりの個人差が出てきます。しかし父からくる幼い印象の種は確実に無意識の世界に在ります。


繁華街をミニスカートをはき、男の視線を集めて闊歩する少女たちの家庭環境や人間関係はおよそ推察できます。少女たちに罪はありません。親や周りの人たちから与えられた印象や記憶をなぞっているのです。これを「業の流転」といいます。
子どもが幼児の時から親子の人間関係に教育的配慮がなされべきだと思います。子どもは親の人格から感化されます。そして成長しながら、さらに兄弟や学校の先生といった人間関係によって感化され人格を形成していきます。

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【16】

いたわりの心で傷つける

人間関係にとっていたわりの心は非常に大切なのですが、このいたわりの心の表現は結構むずかしいのです。
以前、読売新聞に、向井万起男さんのエッセイが載っていたのですが、向井さんは会う人ごとに「お寂しくないですか」と言われるそうです。 なにしろ向井さんの奥さんは向井千秋さんという宇宙飛行士でNASAに住んでらして、向井さんとは離ればなれの生活ですから。

向井さんはそう言われる度に適当な返事をしているけど、内心では「さみしくないわけないじゃろが」とムッとするそうです。 つまり、みんなは向井さんにいたわりの言葉をかけたつもりで、反対に向井さんの心をチクリチクリと傷めているわけです。


また、ある身障者のお子さんを毎日車椅子で学校へ送り迎えしているお母さんに、出会う人たちが「大変ですね」と声をかけるそうです。 声をかける人はいたわりの心のつもりでしょうが、そのお母さんは、自分は大変とも思ってないのに、その言葉で子どもが「自分は母に大変な負担をかけているんだ」と思うようになるのがとても心配だと言われているのを耳にしたことがあります。


このように人間関係にとっていたわりの言葉は、その使い方で人を傷つけることがあります。簡単な「頑張ってください」とか「大丈夫ですか」という言葉でも、言われたほうでは腹が立つこともあります。なぜ同じ言葉で勇気づけられたり、腹が立ったりするのでしょうか。


それは心にあるのではないでしょうか。言う人の心の位置です。
自分は満たされている側、相手は不足の側、自分は健康な側、相手はつらい側というように自分を相手より優位な側において、いたわりの言葉を使うことに問題があります。ひょっとしたら相手をいたわることで、自分に優越感を感じていたりすることがあるやも知れません。
人間関係の機微はここにあります。人はあわれみや見下しを受けることを最も嫌います。差別を敏感に感じ取ります。
人間関係にとって大切なのは、いたわる側もいたわられる側もなく、頑張って生きている人を賛嘆することにあるのではないでしょうか。

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【17】

人は自分ではない

人はよく独りよがりで話していることがあります。相手は自分の話していることをわかって聞いてくれているものとばかり思っていたのに、正しく伝わっていなかったという経験は誰にでもあると思います。
しかしこうした笑い話ですむことならば、別に問題はないのですが、独りよがりの認識を相手に当てはめて取り返しのつかない人間関係に至っている場合があります。


人は自分以上のものはわからないものです。人はさまざまなレベルに於いて生きています。 自分の理解の範囲を超えたものはわかるはずもありません。そのため人をすべて自分の理解の範囲内で理解しようとしますから、自分の見ている相手は、あくまでもその人そのものではなく、自分が見ている人にしか過ぎません。ここのところが大切です。
その人の能力も、愛も、 智恵も何より天分も、本来は自分とは全く違うものなのに、自分の理解できる範囲に押し当ててその人を判断します。


たとえ親子という近しい人間関係であっても、親は子の全てをわかっているつもりでいますが、それは自分の生きてきた経験や体験に照らして自分が理解できている範囲でしか子どもをみていないということにしか過ぎません。
確かに自分の得た体験や経験からくる認識には生きる上での大切なものがいっぱいありますが、でもそれが全てではありません。人は目には見えない縛りを受けある方向へ生きていってる人もいますし、遠回りをして自分の生きるべき処へ向かって行かざるを得ない宿命とも言うべき生き方の人もいます。


紆余曲折の生き方を経て大成した人が多いはずです。 全ての人間関係において自己限定した認識で人を判断するのは間違いです。自分の認識を超えた世界へ思いを致さないと、その人の行動や生き方が理解できないことだってあるはずです。 人は自分ではありません。そこの理解が不足しますと、人間関係に不要な葛藤や不調和が生まれます

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【18】

人間関係のダメな人

人間関係がうまくいかない人の一つに頻繁に言い訳をする人をあげることが出来ます。人間関係で自分にとって都合の悪いことから、ウソや言い訳などで自分を守ろうとする働きを自己防衛機制と言われています。

人との会話の中で自分に不利なことを受け入れる心のゆとりがない人とも言えます。自分に不利になりそうだとすぐに言い訳を考えますから、幅広くものごとを考える能力が育ちません。思考能力が短絡化します。 ものごとを深く話し合って解決を図るという段階に行かないで、話し合いの前に壁を作ってしまいますから、深い心の交流は生まれません。こうして人と意思の疎通がうまく出来なくなり、人間関係がダメになります。


心が交流するということは人を受け入れるということですから、自己防衛機制を頻繁に働かす人は自分を受け入れてもらうことばかり考えていて、人を素直に受け入れようとしませんから表面的な人づき合いしかできません。
人との心の交流が出来ないと、独りよがりになり、客観的にものごとが見えなくなります。そのくせ屁理屈はとても上手になります。そして生き生きとしたこの素晴しい世界に心が感動しなくなり、ケイタイの世界などにばかり興味を持つようになります。 ひどくなると自然の花を見ても写真のようにしか心に入ってきません。食事の味も微妙な味わいはわからなくなります。会話の能力も失われていきますので、独りよがりの結論を押し付けたりします。


人間関係にとって何よりも大切なのは、素直に人を受け入れることです。自分にとって不利なことでも素直に考えると、自分の内面から豊かな知性が出てきます。そして人は成長します。自己防衛機制を働かしてばかりいると、人間的には子どものままです

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【19】

人づき合いに疲れる人

人間関係に疲れる人というのは以外と多いのではないでしょうか。なぜ疲れるかというと気を使うからです。気を使わない人はそんなに疲れません。結局一般的にいい人が人間関係で疲れる人といえます。


比較的に「いい人でいなくちゃ」という意識の強い人は、自分の気持や本心を抑え自己犠牲をします。いい人というのは自分にとっていい人ではなく、他の人から見ていい人ですから、どうしても自分を抑え人の気持に合わせます。
ですから人間関係には疲れるのです。比較的に口うるさく厳しい母や父に育てられると、いい子志向になるのではないかと思います。自分にとってのいい子ではなく親とか先生とか周りの大人から見たいい子で生きる人になります。


のびのびと育った人は、楽に自分の気持や本心を出せますから人間関係が楽です。しかしいい子志向の人は、自分の言いたいことを言っている人をわがままな人とか無神経な人と受け止めているのではないでしょうか。
人間関係においては、自分がしたいようにしている人でも、あるいは無神経な人でも拒否されたりはしません。それなりに受け入れられています。愛される人というのには型はありません。人間関係で大切なのは人間性ではないでしょうか。


『いい人』で生きてきた人はどこかで『いい人でいなくちゃ』という思い込みから解放される必要があります。人生はのびのび本心を語り、自分を語ってこそ楽しくなります。くったくなく本心を出せる人と会話をすれば、自分も出せるようになります。

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【20】

人間関係に最も大切なこと

私の今迄の人生を振り返って、人間関係においての一番の失敗は、"人を認める" という行為に欠けていたということです。
人生の失敗を通してわかってきたのは、人間関係で何が最も大切なことかと言えば人を認めるということだったのです。


人はどうしても自分の価値基準ですべてを判断します。その自分の基準であの人はダメ、あの人はいいとか決めつけがちです。これが人間関係では大変な間違いだったのです。ダメな人と見られた人の立場に立って見てみますと、自分をダメな人間と見る人と、心からのいい関係が築けるはずがありません。
自分がその人をどう思っているか、私の心の中などわからないという思いでいますが、人間関係ではそれがくせものなのです。確実に二人の関係に影を落とします。


人は誰でも認められたいのです。それは人間の本来の心だと言われています。ですからその人を認めずして良好な人間関係などあり得ようはずもありません。
ましてや親が子をダメな子と見て、親子関係における問題を解決しようなど無理なことです。嫁姑問題でもそうですね。また夫が妻をダメな妻とみていながら夫婦調和をしようなど矛盾しています。ダメな部下と見て部下に評価される上役もあり得ません。でも得てして人はこの矛盾の中で人間関係を良くしようと模索しているような気がします。


その人がダメかどうかは、ある方向の働きに対しては判断できることかも知れませんが、その人の全てを神ならぬ身が知る由もありません。
自分の方がある面での仕事はその人より優れていても、もしかしたら親孝行などは自分よりその人の方が立派であるかも知れないのです。私たちは人の評価を軽率、短絡にし過ぎているように思います。いえ、私だけかも知れませんが。
人間関係においては "その人を認める" ことこそすべてのすべてです。その人を認めることは、信頼関係の根底を築く元だからです。自戒をこめて。

上の写真は【自然悠悠】さんからお借りしました。

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