| 1. どんなに正しくても、苦しみは怒りの量で決まる |
私たちは人間関係の中で、自分が正しいのに、悪いように言われたり、明らかに相手が間違っていると思えるのに、自分を非難されたりしたとき、おおいに腹が立ちます。 そして声を大にして第三者に相手の非をなじったりします。自分が正しいから怒って当然と怒りを正当化します。 ここに大切なカギがあります。人はどんなに正しくても、自分がその人間関係で受けるつらさ、悲しさは自分の発した感情で決まってきます。 いずれが正しいかどうかは問題にはなりません。ここが極めて大切なところです。  問題がなんであれ、怒りを思うと心の中に怒りのエネルギーが蓄積されていきます。怒りの感情はまず、自分の気持を悪くします。たくさん蓄積されると、怒りのエネルギーは破壊のエネルギーですから自分に苦痛の状態を創ることになりかねません。自分が正しいのに、実に馬鹿げたことです。 アメリカのエルマー・ゲーツ博士の調べによりますと、人間は腹を立てると、血の中に毒素が出来るそうです。腹を立てると気持が悪くなるのは、この毒素の性だと発表されています。 「そんなことを言っても、相手が悪いんだから腹が立ってしかたがない」。ここ、この時に自己コントロールの練習をするのです。 自分を一段高める必要があります。相手をムキになって非難するということは、実は自分と相手は同じ土俵の上にいるということに他なりません。「あの人はそんな人なんだ。相手をするのは止めよう」と自分が離れてしまうんです。 もっと自己コントロール出来るようになると、「あの人もああして、私の至らないところを教えてくれているんだ。あの人の姿はかって私が誰かに与えていた姿なのだ」と感謝さえ出来るようになります。不思議なことに、そうなりますと相手とのいさかいが消えています。 私たちがもっとも気を使い、大切にしなければならないのは、感情です。怒りの量だけ人との関係を壊したり苦痛を創ります。悦びと感謝が幸せを創ると言われています。 かといって怒りを抑えることも間違っています。当然怒るべきときには怒る必要もあります。怒りも人としての正しい表現です。でもそれをいつまでも引っ張ってはいけません。人の感情のなかで一番いけないのは執着の感情のように思えます。 怒りの表現の仕方もまた学びです。 人間関係の苦しみ、摩擦は実にこの自己研磨のために起こるのでは、と思えるほどです。 【page topへ】  私たちは生まれた時から生涯に渡って、愛に関わりを持って生きていきます。 親子の愛、兄弟愛、友情、恋人、夫婦愛、隣人愛、人類愛といったように愛の海の中を漂っているかのようです。 だから当然、愛の扱いには慣れているはずなのですが、でも多くの事件はこの愛が裏返しになって起きています。 本当は愛で深くつながっているはずの父と息子の事件・・・赤ちゃんの頃はその誕生を喜び、幼いときは遊園地へ遊びに行ったりしてかけがえの無い愛であったはずなのに、なぜ? 愛しあって結ばれた夫婦の痛ましい結末、こうした事件は今や枚挙のいとまがありません。 事件にまで至らなくても、愛するが故のトラブル、葛藤、これらが人間関係の苦しみの中で大きなウエイトを占めています。 なぜ人を幸せにし、人を悦ばせる愛が苦しみを生むのでしょうか? なぜ人は愛の扱いに失敗するのでしょうか?  実は私たちは愛と一文字で表現していますが、その愛の中身はいろいろ区別されることを知る必要があります。無条件の愛、求める愛、与える愛、束縛の愛、溺愛など一口に愛といってもいろいろです。 仏教では慈悲喜捨の四無量心を本当の愛と説いています。慈悲の心とは他への喜びの施しを言います。これはつまり自分のための愛ではなくて、他を第一とする愛なのでしょう。ここまでくれば愛も完成なのでしょうが、私たちが陥っているのが自己から切り離せない執着の愛です。 父と息子の葛藤の場合も、今現在、息子がいかなる状態でも長く大きな愛で見守っていれば葛藤は起きにくいのに、父の今なんとかしなければという執着の愛が、息子に不当な干渉と映り、次第々に断絶をつくっていきます。 男と女の愛についても少し考察してみますと、安心と幸せの二人の愛のはずが、いつの間にかイライラした落着かない場に変わっていたりします。それは、愛する人を自分だけの物にしておきたいという執着の思いから、相手の行動を監視したり、束縛したりすることによって起こります。 不安と心配と嫉妬の心で、知らず知らずに相手を心でしばります。 人は本来自由でいたいのです。束縛を最も嫌います。執着の愛は、相手を束縛します。束縛する側もされる側も苦しいのです。 人間関係の中でも、逃げ場がない心の抑圧を作りあげる愛が、母の支配愛です。母の神経症的心配や、自分の果たせなかった夢を子どもに押し付けたり、逆に幸せな子どもへの嫉妬からくる支配等、母の異常性からくるのに、それに気づかず愛だと思いこんで行われている日常の執着愛。これはトラウマ作りです。 執着の愛は、自分と相手に苦しみを与える最も注意を要する愛です。 放し、相手を見守る愛こそ身につけるべき愛です。自戒をこめて。 【page topへ】  私たちは日常の人間関係や生活を営んでいく中で、極めて大切なことにあまり注意を払わないで生きていっているように思えます。 生きていますと様々な出来事に出会います。喜びに満ちた出来事、悲しい出来事、腹立たしい出来事など様々です。そしてその出来事に翻弄されて精一杯を生きていきます。 その起こってきた出来事の深いわけ(理由)を考えてみることもなく、ただ流されていく。  実は、人生は偶然ではなく、すべて法則にもとずいた必然の結果であると言われています。 その法則は『原因 結果の法則』です。あるいは『心の法則』とも言われています。その法則を具体的に考えてみましょう。 その法則は眼には見えません。また科学的に証明できる分野でもありません。実証も出来ません。ただ人間の英知で、直感的に理解する以外方法はありません。 一つの出来事を想定してみましょう。 嫁と姑との間の問題です。姑は食事を制限された病気とします。お嫁さんは普段からその姑さんの食事づくりに一生懸命頑張っています。健康な家族ばかりでしたら必要のない苦労です。 ある時そのお姑さんが骨折したとします。その骨折は偶然でしょうか? 最初に( 起こってきた出来事の深いわけを考えてみる)と言ったのはこういう時です。普通でしたら『まあ、大変だったわ』で済ませるところですが、ここでこの骨折が起こったわけを考えてみるのです。 私たちが生きているこの世界は、心のエネルギーの表出する表現の世界ですから ことばがすべての基です。骨折は骨を折るということですから、骨折した人は自分のことで誰かに骨を折らせていると考えられるのです。 誰かに骨を折らせている人はみな骨折するかというとそうではありません。人に厄介をかけているということを理解していて、心の中やことばで感謝している人には、それが基での骨折は起こらないと思います。気づかせるために起こるのです。 誰が起こさせるかというと、神様ではありません。自分です。自分自身の奥深くの良心が引き起こすのです。これが自己処罰です。 えらそうにすみません。こうした研究の第一人者であるアメリカの精神医学者カール・メニンジャー博士の文献を参照してください。 この骨折がすみやかに治る人と、いつまでたってもグジグジと治らない人といます。その違いもその人の心の持ち方次第だと考えられませんか。 自分の災難ばかりをみてグジグジばかり言っている人がなかなか治らないと考えてみたらどうでしょう。これが 『心の法則』あるいは 『原因 結果の法則』です。イギリスの文筆家ジェームス・アレンの文献を参照してください。 自分をとりまく環境、これは決して偶然ではありません。 《現れの奥の心》を観ることで私たちはいっそう高められると信じています。 【page topへ】 人生を素晴らしく生きる人、そうでない人、どこが違うのか。 才能、性格、運、まわりをとりまく人間関係?あるいは業?確かにそれらの影響もありますでしょう。でも、与えられた条件の中でもっと自由に、そして皆同じように精一杯幸せになれるはず。 幸せにのびのび生きている人、そうでない人、その違いのカラクリが見えてきました。 心の想いを表現したのが人生です。表現というより 心のエネルギーの表出と言ったほうが的確でしょう。 人生から雑多なものを取り除いてみるのです。学歴だとか、運、家族関係、人間関係、環境、お金,そういった眼に見えるものにとらわれていると、本質的なものが見えなくなります。 眼には見えないけど本質的なもの、それが『こころ』です。幸せを創るエネルギーを表出しているのも心です。そして幸せになるエネルギーの表出を邪魔しているのも心です。  人は皆幸せになりたくていろいろな理想を思いめぐらしていますね。 人生を素晴らしく生きている人たちは、この思いめぐらしている心のエネルギーが素直に表出されている人たちです。 ところが、人生は思うようにならないと思っている人は、自分の思いと反対に、自分で知らず知らずにこの本来の心の表出を妨げているのです。 大切なのはここです。何が幸せになるはずの本来の心の表出を妨げているのでしょうか。 それは摩擦の心です。人とすれあう心なのです。憎しみの心・不平の心・ストレス・悲しみ・嫉妬・取り越し苦労・持ち越し苦労・こういった マイナスの心がいい心をすり減らして、エネルギーを無駄に消耗させているのです。なんとなくおわかりでしょう。 それだけではありません。「性」の問題も大きくエネルギーを無駄に消耗させます。本来なら建設的な方向に使えるエネルギーを性についての心のストレスのために、いかに無駄に幸せや成功を消耗させているか。 過去の苦しい体験からくる抑圧された感情、トラウマ。これもプラスの心の表出を大きく阻害します。 本来のプラスの心の力も、何もしなければさほど大きな力を表出できないのではないかと思います。人生を素晴らしく生きている人、あるいは成功者といわれている人、こうした人たちは 生き生きとした強い思いや、幸せのリアルな感情で大切な時間を使っている人たちであろうと思います。 【page topへ】  自分が快適な生活をするということは、自分の好きなことをやっていればいいだけのことですね。 でもここでとても大切なことがあります。 自分の好きなことをやるのと、 自分の好きにやるのとは大きな違いがあるということです。 自分の好き勝手にやろうとすると人間関係に問題が生じます。この世界に自分ひとりだけで生きているのなら、何をどうしようと何の摩擦も不調和も起こりません。共に生きている・・・ここに生きることの難しさと楽しさ奥深さがあります。  共に生きている中で、快適に生きる。これこそが私たちの目指している生き方ですね。 共存、この言葉が私たちが生きていく上での悦び、幸せ、調和、苦痛、不調和、人間関係のトラブル等の根底に係わっている重要なキーワードのように思えます。 私が今まで見てきた転落していった人々に共通している性格というか、生き方は皆、身勝手な心を持っているように見えました。自分のことを優先させて他を踏みにじる。 私の人生に苦痛をもたらした要因は、今から思うと私の身勝手の思い、行為でもあったと思えるのです。 昔から言われている『与えよさらば与えられん』とか『積善の家に余慶あり』という言葉もこの 共存というキーワードに当てて見るとよくわかります。 私たちが生きているこの世界には、 共存に適したものが快適さを享受できるという見えざるルールがあると考えると、全てがはっきりと見えてきます。 これは私たち人間が集団を形成して生きていくなかで、必然不可欠のルールなのでしょう。 身勝手はこの共存のルールに反します。ですから快適に生きようと思ったら、まず身勝手な行い、思いは止めねばなりません。 人間関係に於いて、道徳やよき行い(善)、美しさが求められるのもこの 共存のためなのです。 自分の好きなことをしながら快適に生きる・・・これは共存のルールに従って初めて可能なのだということを私たちはよくよく知るべきなのではないでしょうか。 |